大阪のまちを大きなセーフティネットに
-仕事と住まいをなくした人の支援センター「大阪希望館」の挑戦-

2010年12月

山口 勝己

大阪市職員労働組合
前自治労大阪府本部執行委員

1、市民が作った“仕事と住まいをなくした人の支援事業”

(1) 2009年5月30日、「大阪希望館」開設

大阪市北区の、かつては「釜ヶ崎」に匹敵する都市スラムがあった地域の一角。1フロア1室、8階建てのまるで使い捨てライターを立てたような小さなビル。低階にはサラ金業者が店を構える。そんなビルの8階に「大阪希望館相談センター」は開設された。2009年5月30日のことだ。6月8日には、相談センター近隣にアパート5室を借り上げ、「支援居室(うち1室は管理人室兼シャワールーム)」としてオープン。そして7月11日には小説「大阪希望館」の作者として名誉館長を引き受けていただいた直木賞作家の難波利三さんも出席して「大阪希望館運営協議会設立総会」を開催した。設立計画立案からここまでわずか6カ月の急ピッチの作業だった。

 時間をかけている余裕はなかった。2008年の暮れから新年にかけて、日本人は自国の貧困問題の深刻さを深く自覚させられた。アメリカ発の金融危機に端を発する世界同時不況は、セーフティネットの綻びを放置してきた日本社会を直撃した。全国的には湯浅誠さんたちによる「年越し派遣村」が注目を集めたが、大阪も深刻だった。派遣などの非正規の仕事を失うと同時に住まいをも失った若者からの相談が急増していた。大阪労働者福祉協議会が厚生労働省の委託を受けて運営している「OSAKAチャレンジネット」への相談は前年比3~4倍の月40~50件に達し、「数日前から野宿を強いられ何も食べていない」など相談内容も深刻化していった。釜ヶ崎で活動するNPO釜ヶ崎支援機構に助けを求める人は同5~7倍の月20人に達し、しかも釜ヶ崎での生活歴を持たない若者の比率が急増した。

 私たちが「大阪希望館(以下、希望館と略)」設立に取り組む決意を固めることができた直接のきっかけは、連合の「雇用と就労・自立支援のためのカンパ活動」だ。連合はこのカンパを「単なる資金援助にとどめるのではなく、具体的な支援活動に構成組織や地方連合会が主体的にかかわることによって、労働運動のさらなる役割発揮と具体的な支援活動を通じて新たな政策制度の構築に役立てる」と位置付けた。これまで行政に対して政策提言を行うか、共感する市民活動にカンパなどの支援を行うかしかなかった労働組合が、いわば「市民」の一人として社会的事業を直接担うチャンスをこのカンパ活動は与えてくれたと言えるだろう。因みに初年度、この連合のカンパを含め各支援団体からのカンパ、街頭カンパやイベントでのカンパ、ホームページやマスコミ報道をご覧になった市民からのカンパなどで総額23,456,293円の支援カンパが集まった。

 希望館の運営主体は大阪希望館運営協議会である。運営協議会には実に多様でユニークな団体・個人が集まった。連合大阪や大阪労福協などの労働団体、カトリック教会や金光教などの宗教団体、人権団体である部落解放同盟大阪府連合会など。これらの団体はどちらかと言えば「応援団」的な団体といえる。一方、実際に支援活動を担うノウハウを持って参画しているのがNPO法人釜ヶ崎支援機構やホームレス就労支援センター、生活保護施設を運営する社会福祉法人などである。これらに加え、多くの研究者や文化人、市民活動家の皆さんにも呼びかけ人として参画いただいている。運営協議会の共同代表は、労働界を代表する山田保夫大阪労福協会長と宗教界を代表する松浦悟郎カトリック大阪大司教区補佐司教の二人が担っている。さらに日常的な活動については運営協議会のもとに事務局会議を置いている。事務局会議は各団体の担当のほか希望館の支援スタッフが参加して月1回開催し、何事も相談している。この事務局会議が希望館で実践される日々の支援活動と運営協議会に結集した各種団体による「支援活動に対する支援活動」を繋ぐ重要な役割を果たしており、まさに「協働」の現場といえる。

(2) 一人ひとりに応じた自立の道を―希望館の支援活動

 さて、昨年6月に支援居室4室でスタートした希望館は、7月には6室に、12月には12室に支援居室を増室し、支援活動を拡充していった。1年間の利用者の延べ人数は27名。終了者は18名。終了(退居)者の平均入居期間は約3カ月で、これは私たちの当初の予測よりかなり長期間といえる。終了時の状況は以下のとおりである。

就職・
居宅契約
住込み
就職
無断
退所
自主
退所(*1)
急病
逝去
救護施設
入所
居宅生活
保護
5人 3人 2人 3人 1人 1人 3人

 ここで簡単に希望館の支援内容について紹介しておきたい(図1参照)。まず利用希望者はチャレンジネットを通じて申し込んでもらう。利用が決まった人には支援居室が提供される。決して広くはないが、すべて個室である。プライバシーが確保された環境で疲れを癒し、今後のことをゆっくり考えてもらうためだ。もちろん無料である。一方、利用者は働くリズムを維持するとともに、住居費以外の生活費を自活するために、入居後約1ヵ月間は就労意欲継続訓練作業として週3日、1日6時間の淀川河川敷清掃作業に参加する。これには1日4,500円の作業手当が支給される。利用者は1日1,500円ほどで食費や必要最低限の生活費をまかない、後は自立生活に向けて貯金する。1週間で3,000円、1カ月で約12,000円の貯金ができる計算だ。

 これと並行して仕事と住まいを失うに至った経過をスタッフとの面談を通じて振り返ってもらう。入居当初の利用者は一刻も早く再就職し自立したいと焦っている場合が多いが、支援スタッフは自分の生い立ちや職歴・生活歴を振り返り、仕事と住まいを失わざるを得なかった経緯を客観的に見つめなおすことが、次の生活を構想するうえで極めて有効であることを強調する。また、面談の過程を通じて、一見しただけでは気付かなかった病気や障害の存在が発見され、必要な支援に結びつくことも少なくないという。さらに職業カウンセリングの受講、住民登録地の設定や失業手当の申請、国民健康保険加入手続き、預金口座の開設など再出発に向けた準備を支援する。ハローワークなどでの求職活動をスタートさせる人には携帯電話や背広などを貸与し、履歴書の書き方などにもきめ細やかなアドバイスを行う。

 こうしたステップを経てひとりひとりに応じた自立の道を探る。正規雇用での就職による自立を目指すが、それが唯一の自立の道とは考えていない。長期間にわたる不安定な生活が健康を蝕み今しばらく療養を中心とした生活が必要とされる人には、生活保護を活用した居宅生活により療養生活を確立するのも立派な自立である。反対に生活保護のみに依拠した自立は奨励しない。介護の道を志す人には職業訓練でヘルパー資格取得に努めながら「職業訓練・生活支援給付」を活用して自立する道を勧める。また、希望する業種で正規の就職先がなかなか見つからない人には、緊急雇用創出基金による仕事に就きながら自活し、粘り強く求職活動を継続する道もある。住宅手当を活用すれば、賃金の安い非正規雇用でも、当面はなんとか自立した生活を営める。自立の形に画一的な「正解」があるわけではない。当事者の立場・目線に立ち、その希望するところに耳を傾けて、はじめて他の誰のものでもないその人独自の自立の形が見えてくる。当事者が自分の自立の形を発見していく過程に寄り添い付き添っていくことこそが、希望館の支援のスタイルであるといえる。

図1 大阪希望館の支援内容(「大阪希望館の利用案内」より)

2、未来への「希望」を何に求めるか-社会的排除と包摂

(1) 利用者は何を奪われてきたか、何を取り戻そうとしているか

 希望館の支援は生活保護を否定するわけでもないし、不安定でも自活できればいいと言いたいのでもない。人生に苦労はつきものだが、破滅へのカウントダウンのような苦労は耐えられないし人間を鍛えもしない。あくまで将来の希望につながるから人は苦労に耐え、希望から逆照射されているからこそ厳しく不安定な生活の中にも自己を保持することができる。問題は「希望」とは何かということだ。次にその考察を二人の利用者の事例から考えてみたい。

 最初は希望館のスタッフブログに投稿してくれたMさん(28歳)の事例だ。Mさんは現在、希望館での生活を経て民間会社に就職し、アパートを借りて自立している。

 私は、地元A県で民間会社に勤めていました。 その頃、母と住んでいたのですが、その当時母も体調が悪く、生活保護を受けたいと言っていました。しばらく日が経ち、母は突然、自宅に帰ってこなくなりました。更に母宛に50万もの取り立ての張り紙が玄関ドアに張られており、それがきっかけで私は会社をやめざるを得なくなったのです。今まで住んでいた部屋には当然住めなくなり、私は渋々B県で派遣社員として働くことになったのです。しかし、出勤日数があまりにも少なく寮費だけで給与の半分以上もっていかれる上に、派遣会社の社員には遠回しに退職を促され、私は我慢できず派遣会社を飛び出し、叔父のいる大阪へ足を運びました。しかしそこにはもう叔父は住んでおらず、初めてきた大阪という土地で途方にくれました。そのときの手持ちは7千円…。

 自然と足は梅田の方に向き、ネットカフェへ。ネットカフェのブースで私は自殺サイトをひたすら見ていました。それと並行して「まだやりたいことがいっぱいあったのに…」と思っていたら偶然にもOSAKAチャレンジネットのページをみつけたのです。それが大阪希望館との出会いでした。

 私は今現在この大阪希望館とスタッフの方々に支えてもらった上で、再び人並の生活をさせてもらっています。周りには励まし合える仲間や応援してくれるスタッフがいて、私は大変幸せな環境にいるんだなと実感しています。また、大阪希望館を支援してくださっている方々には本当に感謝しています。このあたたかい場所の存在を知らない人や、本当にこの場所を必要としている人達の為に、いずれは私もこの大阪希望館が末永く続く様にお手伝いが出来ればと思います。

 もう一人はKさん(32歳)。自治労大阪府本部が今年5月に開催した自治研集会の分科会で語ってくれた話の要約である。Kさんはその後ヘルパー資格を取得し、特別養護老人ホームへの就職を目指している。

 両親は幼いころ離婚し、私は母と二人暮らしでした。大学に進学したかったのですが、お金が無くてそれが叶わず、私はそれが不満で高校卒業後も就職もせずアルバイトなどしながらぶらぶらしていました。ある日、アルバイト先から帰宅すると、母がいなくなっていました。それでも家賃だけは払ってくれているようだったので、私は同じような暮らしを続けていました。ところが私が21歳になったときに突然家主さんが家賃の督促に来ました。私は「ああ、お母さんはもう家賃を払ってくれなくなったんだ」と思い、家を出て寮のある派遣会社で働くことにしました。

 派遣では10年働きました。職場は変わっても仕事はありました。ただ派遣の世界では35歳の壁というのがあって、35歳以上になるとなかなか雇ってくれません。だから35歳以降のことは考えないようにしていました。ところが昨年の不況で突然仕事がなくなって、住むところにも困り西成の簡易宿泊所に泊まって、どうしようかと思っていたときにテレビ番組で希望館を知り、相談しました。

 希望館では同じような苦労をしてきた仲間にも出会い、職員の方に親切にしてもらい、助かりました。なにより自分に家のないことを、嘘をつかずに話せるようになったことでずいぶん気持ちが楽になりました。派遣で働いているときは、普通に帰る家があり、そこには両親や家族がいるような顔していたので、それがしんどかったのです。希望館の仲間には何でも話せるので安心です。私もこれから希望館にくる人たちの話を聞いてあげたいと思います。今は介護の仕事を目指してヘルパー2級の資格を取るために職業訓練に通っています。将来は介護福祉士の資格も取って介護のプロを目指したいと思っています。

 二人に共通してまず見えてくることは、派遣労働に従事する以前の生活の不安定さだ。二人の場合、住まい、それ以上に家族(母)を失ったことが寮付きの派遣労働者となる原因となっている。帰るところのない状態で派遣労働を強いられている人が、派遣切りと同時に住まいをも失ってしまう。湯浅誠さんはこのメカニズムを「溜め」というキーワードで巧みに読み解く(*2) 。彼の言う「溜め」とは決して金銭的蓄えだけを指すのではなく、人的能力や困ったとき支援してくれる人間関係の有無など総合的な概念である。そしてこの「溜め」が総合的に失われることを「貧困」と呼ぶのである。この「溜め」に対する気付きを促すことにより、新自由主義的な言説が流布する中で蔓延している「貧困」の自己責任論を克服し、政府の政治責任を明確にして政策的対応を引き出していこうとするのが湯浅さんの戦略であるといえる。このように一度回り道をしてからでないと「貧困」問題を突き詰められない原因は現代の貧困の構造が見えにくくなっているからに他ならない。しかしこの構造を読み解けない限り、貧困克服に向けて一定の財政出動を行うことのコンセンサスは取れても、どこにどういう形で政策なり財政なりを投入すれば課題が改善されるかが見極められないことになる。

 「溜め」はどうしてある特定の人たちから奪われてしまうのか。これは「新しい社会的リスク」に関わる問題であるといえる。宮本太郎北海道大学教授は、かつて誰にとっても目指すべき生活とされた生活の自明性が揺らぎ、人々が新しい生き難さに直面していることを指摘し、「政府の責任や財政の役割という問題は依然として重要であり、また年金、医療、公的扶助といったこれまでの福祉政治の争点は引き続き中心であり続ける。しかしながら、他方ではこうした政策や制度が半ば自明視してきた生活の中身が問われるのである」としていわゆるライフ・ポリティクスへの対応の必要性を強調する(*3)。つまり中央政府における「貧困」解決に向けた政策・財政出動とともに、これまで自己責任論からする「貧困」の原因として責められたり、「貧困」を原因とする二次的な生活上の困難と軽視されてきた様々な「生き難さ」そのものを俎上に上げ、いわば主客を転倒させて、その極めてパーソナルでありながらその人にとっては抜き差しならない問題をまず解決していくための支援が必要だということである。

 二人の共通点の二つ目は、希望館での仲間との出会いが自分を変えたという思いであり、これからも仲間のために何か担いたいという思いだ。これは彼らにとって希望館が「居場所」となったことを示している。派遣会社の寮は居場所ではないが、希望館は居場所となりえた。希望館を巣立って一人暮らしを始めても、希望館は彼らの居場所であり続けなければならない。これは社会的包摂のモデルであり、希望館の次なる挑戦につながっていく。

(2) 希望館の新たな挑戦-「おおよど縁パワーネット」へ

 希望館は今年6月からひとつの新しい事業に参画することになった。ホームレス問題でも著名な水内俊雄大阪市立大学教授が仕掛け人となって、店じまいされた銭湯を大阪市立大学都市研究プラザがサテライト研究室として借り受け、「アート・セントー(銭湯)」と名付けた。ここを拠点に何か面白い取り組みができないかと相談するうち、都市研究プラザ・大淀寮(地域に根付いた生活保護施設、希望館運営にも協力してくれている)・希望館に町内会等地域コミュニティ団体も加わり、地域コミュニティと地域セーフティネットの再生に取り組む「おおよど縁パワーネット」事業(図2参照)を立ち上げることになった。

 近年、大淀寮では退寮してから近隣で居宅保護を受ける「OB」のアフターケアに取り組むうちに、OB以外にも独居高齢者や居宅の生活保護受給者などで孤独な生活を送っている人がたくさんいることに気付いていた。もともと大淀寮は地元のイベントや祭りなどに積極的にかかわってきており、町内会とも信頼関係があるため、町内会サイドからもこうした課題を一緒に取り組んでほしいというニーズの表明も受けていた。しかし、人手も予算もなく支援に乗り出せずにいた。一方、希望館では現役の入所者と自立して巣立っていった修了者の交流の場として「利用者の集い」を月に1回開催するようになっていたのだが、そこが相互に支え合いエンパワーし合う場となっており、この力を何かに生かせないかと考えるようになっていた。さらに「アート・セントー」には公共政策を専攻する研究者の卵やアートを通じたまちづくりを目指すアート系の若者が集ってきた。遂にその課題に「おおよど縁パワーネット」として挑戦しようということになった。因みに「おおよど(大淀)」とは北区北部の合区前の区名である。構想は大阪市人材育成支援事業に応募し、採用されたことから一気に具体化した。早速、希望館の修了者2人と入所者1人、大淀寮のOB3人が雇用され、まちの「何でも屋」「お助け隊」としての活動をスタートしている。まだまだこれからの事業だが、一つの歯車が軋みながらも回り始めた感覚を私たちは感じている。希望館の新しい挑戦をぜひ温かく見守っていただきたい。

図2 「大阪希望館」から「おおよど縁パワーネット」へ(「大阪希望館の利用案内」より)

3. 「新しい公共」としての「大阪希望館」-「希望は商店街」

 希望館を「新しい公共」の取り組みとして位置づけたい。「新しい公共」とは何か。いささか長い引用になるが、もう一度宮本教授の指摘に耳を傾けよう。「ライフ・ポリティクスを組み込んだ福祉政治は、デモクラシーの深化につながっていく可能性もある。(中略)デモクラシーといっても、ここでは過度に理想化された構図を思い描いているわけではない。立ち現われてくるのは、同質的で議論の作法をわきまえた市民のとりかわす討議空間ではない。必ずしも公共的討議に長けているわけでもない様々な人々が、試行錯誤で打開策を模索する過程である。こう言ってよければ、はるかに『切羽詰まった』交渉過程である。(中略)しかしながら熟議のはてに問題の解決につながったときには、地域社会への見返りは大きい。人々の社会参加に関わる困難が克服され、より多くの人々が、ケアを受ける側からより能動的に地域社会を支える側に回るならば、それは地域社会の人的資源の有効な活用につながる。また、孤立していた人々が声をあげて新しいつながりができるならば、そのこと自体が新しいコミュニティの形成となり、人々相互の信頼関係、すなわち社会関係資本を生み出していく(*4)」と。「新しい公共」が皮相に解されると公共サービスの担い手の多様化ばかりが着目され、ともすればコスト削減効果やその是非のみが関心事になる傾向がみられる。しかし、宮本教授の指摘は「新しい公共」がコミュニティレベルにおける自治の奪還を含む、民主主義の課題であることを示唆している。ならば派遣切りや「ネットカフェ難民」の当事者たちが自らをも包摂するコミュニティの形成を求め、自らがそのコミュニティの組織者になっていくという道筋もあるのではないか。彼らは自己の権利を主張するには随分ナイーブだが、人のためなら頑張れる。そう思ったからだ。

 希望館の呼びかけ人に名を連ねてくれている中島岳志北海道大学准教授は、大阪府本部の自治研集会での講演で、自身が関わる「札幌ビッグイシュー」の活動と発寒商店街活性化のために商店街振興組合や学生と立ち上げた「カフェ・ハチャム」の取り組みを関連付けながら、「希望は、商店街 (*5)」と語った。寂れた商店街の活性化の取り組みの中に、職と住を失った若者の働く場と「居場所」づくりを展望する発想の柔軟さは「切羽詰まった交渉」(宮本)の矢面に立たされるような「デモクラシー」の現場にとことん身を置いた者からしか出てこないと感服した。同時に希望館の活動を「おおよど縁パワーネット」の方へ発展させようとする視点が間違っていないという確信を得たものだ。

 希望館を巣立った人たちの多くは、やはり厳しく不安定な生活を強いられている。したがって雇用制度や社会保障制度の再構築は重要だ。彼らにとってそれは死活問題でもある。しかし、自分が必要とされているという実感をもたらしてくれる地域や人との関係性を制度は保証してくれない。それは「新しい公共」形成が担うべき仕事だ。

 今年の夏はことさら暑かった。その猛暑の中を「おおよど縁パワーネット」スタッフとなった修了者が地域の盆踊りの準備に汗だくで走りまわっている姿があった。その姿に私たちは「希望」を、彼らとともにまちの未来の「希望」を見るのである。

≪追記≫本レポートは、「市政研究」第169号(2010年秋号)に掲載されたものです。

*1 自主退所の3人は退所後、NPO釜ヶ崎支援機構で支援を継続している

*2 湯浅誠「反貧困」(岩波新書、2008年)p.78-p.95

*3 宮本太郎「福祉政治」(有斐閣、2008年)p.174-p.176

*4 宮本太郎「福祉政治」(有斐閣、2008年)p.174-p.176

*5 「中島岳志の希望は、商店街!-札幌・カフェ・ハチャムの挑戦-」
http://www.magazine9.jp/hacham/

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